昭和42年06月13日 十三日会



 三代様の御時代に三代金光様に、ある難儀な問題をお届させて頂いたら金光様は信心を進めておかげを受けられたらよろしかろうという事を仰ったそうですね。信心を進めておかげを頂きなさいと言うことを仰った。私どもがあの、椛目の時代から合楽に引っ越して、おかげを頂きました。いうなら、椛目の信者から合楽の信者として、皆さんおかげを受けたわけでございますが、そこに、神様の願いもございましょう。
 私ともの願いも勿論かのうたの御座いますが、その願いと願いが一つになって、そこにまあ爆発的なおかげをまあ頂いて今日に至っておる。それでも尚且つまだなんとかしなければと。というのが今日皆さんが会合される目的だと思うのです。是からの合楽はどう言う様なあり方で、信心を進めて行ったら良いだろうかと。ですから結局は椛目の信心から合楽の信心へと、いう信心を進めておかげを頂かなければならんのです。
 ですから、その進めると言うことです。ただ今、秋永先生のお導きで古川と言う方が始めてお参りになっておられます。お母さんが白内障ですかね、もう、失眼寸前にあられるわけです。このごろの鹿児島のほうからあのう失眼寸前の方が参ってきておかげを受けてだんだん、自分で小さい字でもかけれるくらいまでおかげを受けておるのです。又はあの、山口の中林さんなんかもそうです。おかげを受けております。
 それがその神様はおかげになると言う事をです、例えば中林さんの場合であったら、丁度コップの水の中に椿の花の硬いのがつぼみ位のが刺さっておる所のをお知らせに頂きました。ですからこのままほおって置いたら絶対にこれは失明なんです。けれどもお恵みの水の中につければ開くというお知らせであった。だからここへ一生懸命そりゃ下関のあちらの教会で有名な信者さんですから。
 総代いや総代以上の御用を頂いておられる方なんですけれども、よそではしらん。けれども椛目のお広前のお恵みの水に漬ければ必ず開くと。そこであのお婆さんお父さんが一生懸命お参りになりまして、おかげを頂かれたのですね。一生懸命に参るというても下関からの事で御座いますから、月に二回くらいな事です。現在はお礼参拝が月に一回必ずあっておるという位なものですけれども、ね。
 ただお恵みの水につけておけば開くというのである。鹿児島と熊本県の県境から参ってくる、その方の場合なんかは月に一回お礼参拝をしよる。お参りをしてくる度におかげを頂いておる。そう言う様な言わばこの、同じ例えば目のない人が目を頂くと言う事でもそう言う様な意味合いでその程度でおかげを受けるという場合があるけれども、古川さんの場合はそうじゃないです。ね。
 一心を立てればおかげになるとか、ね、一生懸命とかとというのはです、例えていうならば、もう私どもが目が見えておるものが、目を取られると言うことは、もう真っ暗な世界です。いうなら谷底に突き落とされた様なものなんです。だからその谷底に突き落とされたと思うてです、そこから一心を出せといわれる。言うならパラシュートを使って、下に飛び降りるような、一つの思いきりと言う信心がなされなければいけない。
 私それを頂いてからですね、今日の椛目の皆さんの場合はです、今まではです、月の一遍参ればおかげを頂いておったのです。今まではですお恵みの水の中にいわゆる椛目のお広前にご縁を頂いておるというだけでおかげを受けてきた。けれどもこれは、丁度椛目のそれのように私は感じたのです。ね。もう、問題はその飛び降りるその勢いなんです。飛行機から本当に高度なところから飛び降りる思いきりなんです。ね。
 かならず開く。それは千に一人は開かんとがあるかもしれませんよね。けれどもあれは開くように出来ておるのです。問題はその思いきり一つなんです。はあこれはその一心の信心をすれば、この目は開くなと私は思うた。丁度椿の硬いつぼみでもそのままになっておったらもうつまらんのだ。けれども、水の中につければです、開くと言うことを頂いたようにそして、実際に開いたおかげを受けられたようにです。
 もうこちらは65歳かになられる、お年寄りなんだ。鹿児島の方も60いくつのやはりお年寄りです。ね。これなんかは今の何のよりも白内障で四回も手術をしたんです。そしてもうだめだといわれたのです。いよいよ。ね。そこからでも、やはりおかげを頂いておるのです。ですから、古川さんの場合なんかも、その気になるじゃろうとこう、感じる。ところがその、場合は少し違う。ね。
 それこそ、真っ暗い谷底に突き落とされる前にですね、そこから、飛び降りる位な気持ちが必要だということ。 私は一心とはそういうことだとこう思うですね。少し皆さんの信心がです、ね、例えばこれだけ椛目にご縁を頂いて折る人達がまだ朝参りの本当の味わいを知らない人達がありましょう。ね。お道の信心は日参からと言われるくらい。お日参りの味すらわからん人がまだございましょう。ね。
 そういう方たちがです、そういう一心を出せば、どんなに寝たぼうの方達でも私は神様は起こしてくださると思う。私は寝たぼうじゃけん。本当に一心になればおかげになるです。ね。私は信心を進めておかげをうけなければならんという事はです、今までの信心ではいかんのですから、まず私は信心をです、ね、一つ進めていかなければならん。どういう風に進めていくかというとですね。
 私は今その、目の悪い方達がおかげを受けてきた。そして、今日私はここでお取次ぎをさせて頂いた方達のそれぞれの一つ信心の段階というものを、まあ、ありますことをお話申しましたがです、今の合楽の方達はです、本当に高いパラシュートを使って、飛び降りる気持ちなんです。この度胸とです思いきりがです私は本当にでる信心こそ、私は一心ではなかろうかとこう思うのです。
 その一心の信心にですお互いがこうした、うって一丸としてなっての信心、一つの働きというものが、なされなければならない時にあたってです、今日まそういう一つのための組織が出来るわけなんです。いかに組織ができたからというて、根本になる、信心が原動力になるものがなかったらその組織はあってもなくても同じようなもの。いや、その組織がかえって邪魔になるくらいなこと。ね。
 その組織が生き生きとしてです、神乍らな働きを頂いてこそ、その組織の働きを十全に十二分にお役にも、御用にも立つことが出来るのだと。それは一人一人の信心の喜びをもってのものでなからなければいけない。今までも信心をしてきた。今までも喜びを頂いてきた。けれども、今までの信心ではいけんのであるから、信心を一段進めておかげを受けたらと言うそこんところです。
 私はこの、パラシュートを使って飛び降りる、勢いの一心をめいめいが出して参りましたならば、本当の意味での、神様のお心にというか、御悲願に答えまつれれる信心とはそういう、一心のものでなからなければ神様のお心に答えまつられると言うことには出来ないと思うです。もうおかげを頂かれんとが残念と思いよります。こんな風でとにかく忙しゅうございます。
 こんなふうで今びんぼうを致しております。もうさまざまに言いわけをする。そんなことではない。どんなに貧乏をしても、おかげを頂こうと思うたら、おかげを頂けんはずがない。ね。とにかくパラシュートを使って飛び降りる、いわゆる思いきりさえすれば。そこんところでぐずぐずしたものがあるから、自然といわゆる、ジリ貧になってしまうのだ。思いきりが悪い。
 だから私ともの信心が、本当にそこに一つの、勇ましいというかね、元気なその思いきりの信心をさせてもろうて。それが、見事に開くおかげになる。おかげを頂いたならです、その後が楽だと思うのです。例えば、それは私実際は、やってみたことは、ないから分からないですけれども、パラシュートを使って、飛び降りる稽古をされる方達がです、二編よりも三編。
 五編と飛び降りる、うちにもうそれはもう、平気な私は事でです、ね、飛び降りることができられるようになられるようにあろうようにです、一心がです、はあ一心とはこういうようなものだと、一心の一つの出し方とでも申しましょうか、ね、この一心さえ出せばおかげになるという一心をです、出させて頂けれる私は稽古をさせていただかなければならないと思うですね。
   どうぞ